※このページは、「統合報告書2026」に掲載した内容です。

人を大切にする経営を基盤に
価値創造につなげる
人的資本経営へ
人を大切にする経営を基盤に価値創造につなげる人的資本経営へ
2009年神戸大学大学院経営学研究科博士課程修了、博士(経営学)。滋賀大学、横浜国立大学を経て2018年から神戸大学大学院経営学研究科准教授、2023年から現職。専門は組織行動論および人的資源管理論。主な著書に『採用学』(新潮選書、2016年)、『組織行動論の考え方、使い方:良質のエビデンスを手にするために』(有斐閣、2020年)など。2022年6月組織学会高宮賞、2025年10月日本の人事部HRアワード(書籍部門最優秀賞)などを受賞。
人的資本経営が企業価値の重要な源泉として注目される中、当社においてもその実践が重要なテーマとなっています。本クロストークでは、学術的視点と現場・経営の実感を踏まえ、長期経営戦略「R.I.S.E. 2035」の取り組みを軸に、企業価値の向上につながる人材と組織のあり方について話し合いました。
服部
まず人的資本経営が重視されている背景について述べますと、大きく二つの流れがあります。一つは事業環境の変化です。かつてのように組織一丸となって勝つ時代ではなくなり、事業のグローバル化を背景に個人や組織の能力、知識、経験がより重要になっています。もう一つは資本市場や労働市場の視線が厳しくなっている点です。人材育成や活用のあり方が企業価値の評価に直結するようになっています。
学術的にみると、日本企業の経営はウォーム・アプローチ(組織と個人との信頼関係や職場の人間関係の醸成を通じてメンバーを導く考え方)とクール・アプローチ(数値やKPIによってメンバーを管理・統制する考え方)を行き来しながら発展してきました。大まかに言えば、伝統的な日本企業は前者を、欧米企業は後者を大事にする、と言われています。これに対して現在の人的資本経営の特徴は、両者の統合にあります。個人および人間関係を大事にする土台の上に配置や育成、成果を可視化し、数値でも語るという、いわばウォームの上にクールを積み上げる二階建て構造にあるといえます。
徳毛
当社は、かつて海外展開を進めながら高品質な製品を安定的に供給し、市場を拡大することで成長してきましたが、事業環境の変化により、この10年は従来のやり方だけでは業績が伸びにくい局面に入っています。その中で、人的資本経営を、住友事業精神「事業は人なり」に立ち返り、人を大事にすることに加え、どこに投資し、どこで成果を出すかを見極める「戦略的ウォーム」へと変える必要性を感じています。
また、ビジネスを展開する事業・地域ともに多角化しているため、人的資本も全方位ではなく重点配分が必要です。具体的には、①グローバル人材・組織の強化、②人的資本のROIの観点から生産性・役割の可視化、③国内工場の再強化の三点を重視しています。こうした点を踏まえ、新社長の國安が「人こそが財産」と申している通り、今後は「人に投資する経営」をさらに磨き込んでいきたいと考えています。
箱嶋
現在は競争が激しく、生産性向上とコスト低減を徹底するクール・アプローチが求められる事業環境にあります。一方、DUNLOPでは、日本企業らしい丁寧なものづくりに支えられた信頼や安心感という価値を大切にしています。
住友事業精神の一つであり、当社が重視してきた「信用と確実」が現場まで浸透した結果として、私が現場に行くたびに品質改善提案が積極的に出されます。日々の業務に真摯に向き合う当社の従業員は本当に素晴らしいと思っています。こうした人づくり、ものづくりを通じて、DUNLOPを「信用と確実」に支えられたブランドとしてさらに高めていきたいのです。単純なコスト競争、数値管理だけでは差別化できません。
服部
箱嶋さんの話は重要ですね。能力やスキルだけではなく、仕事に向き合う心構えや考え方まで含めて、それが企業の競争力になっているということだと思います。「能力が高い」だけでは担保できない価値がある。そこを言語化し自覚的に磨いていくことが、人的資本経営の要諦なのです。
服部
近年、企業の現場では「1on1ミーティング」や「エンゲージメント」など人に優しい言葉が増えています。しかし、実態あるいは従業員の皆さんの実感としては、強い統制を感じる場合が少なくありません。統制自体が問題なのではなくて、言葉と実態が乖離することで、人は敏感にそれを感じ取ることに留意する必要があります。私が懸念しているのは組織内での「しらけ」状態の伝播です。従業員の不満が表に出ないまま、納得していない状態が続き、組織の空気だけが冷えていくというシニシズム(冷笑主義)です。人的資本経営においてはこの「しらけ」を如何に生まないかが重要なのです。
徳毛
まさにその通りですね。当社はこれまで、トップの意思を起点に組織一丸となって高い実行力を発揮してきましたが、環境変化の中でそれだけでは回らなくなってきました。近年は「Be the Change」プロジェクトのもと、「360度フィードバック」、「1on1ミーティング」など、組織風土を変える施策を矢継ぎ早に進めてきました。いずれも重要な取り組みですが、現場の従業員の間でどこまで腹落ちして活用されているかという点では課題が残っています。「制度としてやっている」状態にとどまっていては、先生がおっしゃる「しらけ」に近づく危うさを感じています。だからこそ次のステップが重要です。その点、「R.I.S.E. 2035」において「強い想いと果敢な挑戦」を明確に打ち出したことに大きな意味があります。これまでの取り組みが人的資本経営の土壌づくりの段階だとすれば、実践のフェーズに入ったと考えます。
服部
「R.I.S.E. 2035」は、貴社の言葉として自然に伝わる点で評価できます。特に「果敢な」といった表現は、従業員にも浸透しやすい言葉だと感じました。理念やビジョンの浸透には段階があり、まず知ること、次に自分なりに解釈できること、そして最終的に行動に結びつくことが重要です。借りものの言葉は往々にして最初の段階で止まりますが、「R.I.S.E. 2035」にはその先へ進む可能性があります。だからこそ、実際にどこまで浸透し、現場でどのように受け止められているのか丁寧に見ていくことが求められます。
箱嶋
タイヤ事業の各工場では「R.I.S.E. 2035」の真意の説明に努めてきたので、従業員間では「知っている」という段階までは来ていると思います。ただ、それを本当に自分事にできているかというと、まだ課題があると言わざるを得ません。各工場で役割は異なりますから、「あなたの工場にはこうあってほしい」と、期待を具体的に伝えるようにしていますが、継続が必要です。現場に入ると、従業員からは「長期経営戦略が大切なのはわかるが、それ以前にトイレや食堂の改修などの職場環境の向上に取り組んでほしい」といった切実な声を多く聞きます。ビジョンを語ることと、足元の職場環境を整えることは両輪で進めなければならないと思っています。
服部
今後、人的資本経営を追求していく上では、ウォーム・アプローチの土台の上にクール・アプローチをどう乗せるか、その二階建ての設計が大きな挑戦です。日本の製造業には従来、信頼関係や雇用の安定、現場との関係性といったウォームな土台があります。これは決定的な強みです。一方で、KPIや数値管理を導入していくとき、その仕組みがうまく土台とつながっていないと、結局は表面的な変化だけで終わってしまいます。
徳毛
現場の技能系従業員とスタッフ系従業員では状況が異なります。厳しい事業環境の中で、現場には近年かなり無理を強いてきました。現場をウォームに戻し、面倒見のよい職場にしていきます。2024年7月に立ち上げた「はたらきたい未来の工場プロジェクト」は、そのための取り組みです。タイヤ事業から着手し、ほかの事業の工場でも取り組みを始めています。一方でスタッフ系従業員は、生産性に課題があり、指標の可視化を進めていきます。
箱嶋
また、グローバル戦略を意識した幹部人材の育成にも課題があると考えています。海外でDUNLOPブランドを進化させていくリーダーに対して、適切な育成システムを有しているとは言えません。これから本格的に作っていくべき部分です。
徳毛
当社はグローバル経営に優れた企業と比べると、本社機能のグローバル化に課題があり、本来担うべき事業支援や全社最適の推進といった機能面を強化する余地があります。
服部
グローバルの視点を含めて人的資本への投資を考える際、人的資本の本質的な意味を考える必要があります。教育や経験によって伸ばせること、そして事業にとって重要なインプットになること。その両方を満たすものが人的資本です。知識やスキルだけではなく、レジリエンスや「自分はできる」という健全な自信も、広い意味では人的資本に含まれます。レジリエンスや自信が十分に形成されていなければ、知識やスキル面で優秀であったとしても、それらをうまく成果に結びつけることができないということが、経営学の実証研究の中では示されています。これから大事なのは、これらを含めて、DUNLOPにとって何が本当に重要な人的資本なのかを、もう少し広く捉え直すことかもしれません。
箱嶋
その点、DUNLOPの価値を上げるうえで、住友事業精神の一つである「信用と確実」の考え方が、従業員にも組織にも浸透していることが武器になると思っています。品質はもちろんのこと、日本企業らしい丁寧なものづくりをどう浸透させ、継続できる職場環境をつくり、どうブランド価値につなげていくか。そのために人をどう育てるかが大切です。
服部
まさにそこですね。能力だけではなく、仕事への心構えまで含めて競争力になっていくはずです。
徳毛
どこに投資し、どこで勝つのかをもっと明確にしなければいけないと思っています。国内工場への再投資もそうですし、デジタル領域やイノベーション領域もそうです。全部に同じように資源を配分できるわけではない。だからこそ、全社最適の視点で判断する力を強化していきます。
服部
貴社にこれから求められるのは、企業としての「くせ(どこに強みを置き、どう打ち出すか、逆にどこは重視しないのか、という企業の特長)」だと思います。奇をてらうという意味ではなく、何がこの企業の特長なのかを、労働市場にも資本市場にも伝えていくことが欠かせません。貴社はとても優等生的で福利厚生などもかなり整っている会社です。だからこそ、その上で日本を代表するものづくり企業としての品格を保ちつつもエッジ(尖り)をどう出していくかが大事ではないでしょうか。
箱嶋
DUNLOP色をどこで出していくのかですね。人的資本経営の観点で考えなければならない課題の一つとして、工場で言えば、ロボットやAIでできることは進めていくべきです。その一方で、人が判断すべきところ、人がやるからこそ価値になるところはしっかり残していきたい。そこをうまく分けていくことが重要だと思います。その中で、DUNLOPのタイヤづくりにはこういう色があるのだ、というイメージをより明確にしていきたいです。
徳毛
全社の課題で言うなら、やはり会社を牽引していくマネジメント層の強化だと思います。今後は、より高いレベルの経営人材や部長層が必要であり、そのためには育成のあり方そのものを進化させていく必要があります。当社の人的資本経営方針では、競争優位の源泉としてグローバル経営人材、イノベーション人材、デジタル革新人材(DX人材)を掲げていますが、特に肝になるのはグローバル経営人材です。
神戸の本社において、例えば外国籍の従業員が2~3割いて、多言語が飛び交い、世界情勢の変化に即応できる。そうした組織環境が不可欠です。その意味で、組織における多様性とインクルージョンは単なる理念ではなく、経営そのものを支える基盤です。多様な人材が能力を発揮し、意思決定に参画できる組織へと変えていくことが、これからの競争力につながると考えています。
服部
人材育成について言えば、三段階で考える必要があります。一つ目はオンボーディング(入社後の適応・育成プロセス)。最初にどのような上司と出会い、どんな世界観に触れるかが、その後を大きく左右します。二つ目は管理職の魅力づけ。最近は「管理職になりたくない」と言われがちですが、実際には「言われたらやってもいい」という層は相当数存在します。魅力づけ次第なのです。三つ目が経営人材。さらに一段階上で、不完全な情報の中でも意思決定できることが求められます。この三段階の中で一つ挙げるなら、私は最初のオンボーディングが重要だと考えます。初期に視野の広い人材として育つ土台を作れるかどうかが、その後に効いてくるのです。
箱嶋
私は、温かくも厳しい上司に巡り会い、ものづくりへ真摯に向き合い、現地現物を大切にすることを叩き込まれながら育ててもらいました。仕事をする上で触れる世界観は重要です。
DUNLOPの価値を上げていくためには、製品・サービスの品質改善を愚直に積み重ねてきた当社のものづくりも武器にしていきたいです。タイヤは命を乗せるもの。その価値を支えるのは人です。現場で日々考え、工夫し、品質を守り続ける従業員一人ひとりの力を、最大限に引き出す人材育成を考えています。どこに特色を出すのかをしっかり定めながら、人が支えるものづくりを人的資本経営の中で磨いていきます。
徳毛
2025年、「R.I.S.E. 2035」の中に「人的資本」という言葉を入れました。正直に言えば、私を含め経営陣として、長期的な視点での議論を一層深め、視野の広い人材を育てていく必要がありますね。人的資本経営をもっと広い意味で捉え直し、考えを深めて言語化しなければいけないと考えています。経営陣でしっかり議論し、方向性を作り込み実行していく。それが未来につながるはずです。
服部
組織改革や人的資本経営は、ある意味で未来を担保に入れて新しい方向へ舵を切る取り組みです。だからこそ、その過程で何を失ってはいけないのかを見極めることが重要です。日本企業は、この20年ほどで合理化を進める中で、本来持っていた大事なものまで削ってしまった側面があると感じています。しかし、人を大事にすることは本来とても合理的なことです。
今日の議論で特に印象に残ったのは、「当社の従業員は素晴らしい」という言葉でした。この感覚を経営陣が持ち続けられる会社は強いです。貴社には、変えるべきことを変えながらも、失ってはいけないものを明確にし、その上で人的資本経営を進めていってほしいと思います。